EarthDreamingロゴ 放送内容
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4月 大平貴之
4月 彦坂 裕
5月 ヨシダダイキチ
5月 五味美保
5月 加藤登紀子
6月 井上葉子
6月 羽仁カンタ
6月〜
7月
浦沢直樹
7月 石飛智紹
7月 ABC アウト
ドアフェスタ2005
8月 大蔵喜福
8月 佐藤文廣
9月 石飛智紹
青山 貴
9月〜
10月
トヨタ
白川郷自然学校
10月 彦坂 裕
10月 藤崎達也
11月 仁志田博司
11月 宇多弘行
12月 川端由美
12月 水谷優子
12月 2005年を振り返って
1月 手塚眞
1月 鈴木重子
2月 竹下景子
2月 鮎川ゆりか
2月〜
3月
石井竜也
3月 青木静
3月 パトリック・ライアン
11月6日ゲスト:東京女子医科大学、母子総合医療センター所長
仁志田博司さん

仁志田博司1 仁志田さんは1942年福島県生まれ。慶応大学医学部を卒業後アメリカに渡り、シカゴ大学やジョンズホプキンス大学で、小児科の中でも特に未熟児・新生児医療の分野を研究されました。
 手塚「仁志田さんは東京女子医科大学、母子医療センターでどんなお仕事をされていらっしゃるのですか?」仁志田「主な仕事は病気や未熟の赤ちゃんの医学的な管理と、そのお母さんの指導です。また生まれる前の胎児から関わりますので産科の先生や、手術をするような赤ちゃんもいますので外科の先生と一緒に管理しています。私はその所長ということで、全体の管理・責任と、小児科の専門医として若い先生方、看護婦さんと赤ちゃんを診せてもらっています」

 手塚「なぜ小児科医を選んだのですか?」仁志田「両親も医者なんです。おふくろが眼科、親父が内科でした。ですから小さい時から両親の仕事を見て、医者になるということは自然に思っておりました。そして子供のイメージの医者は小児科医ですよね、それで。もう一つは大学で仕事をするとは思っていなくて、両親の後を継いで田舎で医者になると思っていました。そうすると外科などの専門医は大きな病院でなければ出来ないので、内科を選び、その中の小児科に自然になったと言うことですね」

 手塚「先生が学生の頃、勉強を始めた頃と今とでは小児医療はどのように変わりましたか?」仁志田「僕は1972年に新生児の勉強をアメリカで始め、74年に帰国しました。その当時の日本はようやく近代的な新生児医療が始まった頃でした。それが今、日本の新生児医療は世界のトップのレベルになりました。具体的な数字で言いますと、新生児の死亡率は1000人に対して2人。今のアメリカではそれが4人、2倍です。ですからアメリカを抜いてしまいました」手塚「海外から先生の研究についてお話などを聞きにいらっしゃるのですか?」仁志田「今から7年前、アメリカの議会で、検討委員会が作られました。それは日本の新生児医療と乳児の死亡率が世界一になったからでした。それでアメリカから私の所に見学に来ました。技術的なこともお応えしましたが、僕がやっている“温かい心を育む運動”について話しました。それは小さな赤ちゃんでも、病気の赤ちゃんでも今の医療で助けることが出来るならば、簡単に切り捨てないで頑張ろう。それは共に生きようと言うことです。お金が掛かる、でも“これだけ豊かな日本でお金が掛かるということで治療をしないということは文明国じゃない”と言う考えでみんなが一所懸命頑張っているから日本が世界一になっているということです」


仁志田博司2 手塚「子供が成長する環境についてお聞かせください」仁志田「植物でも最初はか細い芽が出てます。それを踏みつけたり、水が足りなければ枯れてしまうか、ひょろひょろの木になってしまいます。大木になればそう簡単に倒れませんが。それと同じようにすべて出だしが大切なことは当然ですが、特に脳は遺伝子でこのように発達するとは決まっていません。それは周りの環境や刺激によって発達するのです」手塚「それはいくつぐらいまでが影響されやすいのですか?」仁志田「皆さんそれが一番聞きたいことだと思うのですが、今研究中なんで具体的には言えませんが、昔から“三つ子の魂百まで”と言われています。3歳頃までが重要ですね」

 手塚「生まれたての赤ちゃんでもストレスを感じるのですか?」仁志田「そうです。私は新生児医療を33年やってて、今のご質問に対して、つい最近になって反省しています。私たちは赤ちゃんの命を助けるために箱に入れて、光を当てて、沢山のモニターのチューブをつけて、治療しています。それで命を守ったと喜んでいたんです。でも赤ちゃんに何かしなければいけないことをしていなかったと気づいたんです。それは赤ちゃんの一番大切な心の中枢である脳に注意を払わなかったということです。あんな箱の中に入れられて3ヶ月間痛めつけられて優しくなるはずがありません。ですからその反省に立って、もちろん命は助ける、そして赤ちゃんに出来る限りの優しさを提供して心を育むと言うことをやっています」手塚「具体的にどういう影響が出るのですか?」仁志田「前頭前野(ここは動物が生きていく上では重要ではないのですが)が一番発達しているのは人間です。では何かと言うと“心”なんです。今、痛みや苦しみなどのストレスが与えられるとその部分の細胞が減っていくと言うことが分かって来ました。例えばいじめられて瞬間に人はどう反応するかと言うと、逃げるか戦うかのどちらかなんです。前頭前野がきちんとある人は“どうしてあの人は僕のことを襲ってくるのだろう”と言うことを考えながら、どうやってそれに対抗しようかとか、“僕の方が強いからやっつけるとあの人に子供や奥さんいるかな”と言うようなことを考えます。ところがいつもいじめられている人はそんなことは考えない。一瞬の間に戦うか逃げるか(Fight or Flight)を判断する。Fightだとカッとして相手を刺してしまう。Flightだと逃げて落ち込んでしまう。それが子供の時に育まれなかった結果なんです」

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11月13日 仁志田博司さん

仁志田博司3 手塚「仁志田さんが昨年から始められた“シルクロード・ランニングジャーニー”についてお聞かせください」仁志田「温かい心を育むというのが一番最初に来るんです。それは30年ほど前に手塚治虫先生と内藤寿七郎先生、葛西建蔵さんの3人がどうも子供の心が危ないと言うことで温かい心を育む運動を始められました。私もそう思っていましたので、一緒にお仕事をしました。その運動を広めるためにはアクションが必要ということで、始めました」手塚「昨年の2月〜5月にかけてローマからイスタンブールまで約2,500km、仁志田先生が走られて、13都市で公演をされましたが、何故シルクロードだったのですか?」仁志田「15年ほど前に中国の仕事を手伝いました。そのお礼にどこでも良いから行かせてあげると言われ、敦煌に連れて行って貰いました。それでものすごく感動し、何か晴れ晴れとしたものを感じました。懐かしいような...もしかしたら僕はここで生まれたんじゃないかと思いました。でもそう思っている人は沢山いるんです。それでぜひ走りたいと思っていたんです。ローマから始めて、奈良までの16,000kmを走り抜くのが夢なです」手塚「昨年の続きを今年の8月から9月にかけてカシュガルから敦煌をお走りになり、公演をされましたが、各国の反応はいかがでしたか?」仁志田「どこに行っても大歓迎を受けた理由は、キーワードが子供と心だからです」

 手塚「途中でお子さんを診療されたり、親御さんと直接お話になったそうですが、どんなことを相談されましたか?」仁志田「日本ではどういうふうにしたら頭が良くなりますかと聞かれるんですが、今回中国のウイグル地区でも同じようなことを聞かれました。と言うことは従来は赤ちゃんが元気であれば、病気にならなければと言うのが最大の関心だったのでしょうが、今はそれだけでは満足しないと言うことですね。それが親と子両方の心の負担になっているようです。その話はヨーロッパでもされましたね。でもどんなに頭が良くても、どんなに能力があっても心が豊かでなければその子供は幸せになれません。幸せになるためには心ですね」


仁志田博司4 手塚「昨年ローマで法王様にお会いになってどんなお話をされたんですか?」仁志田「人生の中でも滅多にない素晴らしい経験をしたのは、僕はたんに偉い方にあったと言うよりは、80歳を過ぎた方があんな素晴らしい、赤ちゃんと同じ目をしていると言うことに本当に感動しました」

 手塚「法王様にお言葉はかけて貰ったのですか?」仁志田「手を握らせていただいて僕は一言“I wish you for long life(長生きしてください)”と下手な英語で言ったら、“ありがとう”と日本語で言ってくださいました(笑)驚くと同時に感動しました。法王様はですね、語学の天才のようで沢山の言葉を話せるようで、僕を見てさっと日本語で言うのは、相手のことを考えた温かい心ですよね」手塚「法王様が日本語を話すというイメージはないですけれど...」仁志田「一つエピソードを。これはピタオ大司教様から聞いたのですが、ローマ法王は今から二十数年前に日本にいらして広島の原爆ドームで何分間かスピーチをそれも日本語でされたんです。その数分間の話のために何ヶ月間か専門家をつけて勉強されたんだそうです。それは“原爆ドームで話をするというのは自分にとってとても大切なことで、言葉というのはものすごく大切だ。私が話す言葉がそこにいる人たちに伝わるように日本語で話す”と仰ったそうです。で実際にそこにいらした方が、日本語のスピーチを聴いて涙を流したそうです。すごいですね。それが言葉なんです。それが法王様なんですね」

 手塚「シルクロード・ランニングジャーニーは来年再来年と続くそうですが、今後の豊富をお聞かせください」仁志田「来年は敦煌から北京まで、再来年は北京から上海まで。その次の年は上海から日本に渡って陸路を奈良まで行きます。その後も私の健康が許す限り走り続けたいと思っています。ただこの“シルクロード・ランニングジャーニー”は“ジャーニー”旅が目的なんです。ですから走れなくなったら歩いてもよい訳です。“ジャーニー(旅)”というのはその土地に行ってその土地の人々がどんな生活をしているか、どういうものを食べ、どういう花の匂いをかいでいるかを感じてくるものです。僕は旅が好きなので死ぬまで続けたいと思っています。また温かい心を育むというメッセージを伝えることも僕の一生の仕事です」


藤崎達也さん 宇多弘行さん

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