EarthDreamingロゴ 放送内容
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4月 立川談志
4月 毛利 衛
4月 藤井フミヤ
5月 安在尚人
5月 坂本徹也
5月 近藤 篤
6月 羽仁カンタ
6月 故・手塚治虫講演より
6月 上田壮一
7月 今井絵理子
7月 杉山清貴
8月 船越令子
8月 大野由紀恵
8月 小島あずさ
8月 大宮美智枝
9月 KONISHIKI
10月 西垣成雄
10月 疋田 智
10月 斎藤 誠
10月〜
11月
高樹沙耶
11月 上岡 裕
11月 渡邉英徳
11月 柴田政明
12月 大塚明夫
12月 安寿ミラ
12月 この1年を振り返って
1月 伊藤瞭介
1月 秋山 孝
2月 寺薗淳也
2月 藤子不二雄A
2月 つやまあきひこ
2月 丸田信之
3月 皆川孝徳
3月 大矢寛朗
3月 持丸和朗
6月15日 故・手塚治虫氏講演より

手塚治虫-未来への遺言1 手塚「手塚治虫が生前、1986年3月1日に行った第31回子供を守る文化会議の講演をお聞き頂きます。父はあれだけ忙しくマンガを描いていたにもかかわらず、色々なところで講演を行っていました。そのほとんどはマンガやアニメについての講演でしたが、他にも教育問題や社会環境問題、さらには科学や芸術文化の講演も行っていました。父は日頃から話し上手で、いつも丁寧で分かりやすく話してくれるので、こちらもぐいぐいと引き込まれてしまいました。ただ私は父の講演をリアルタイムで聴いたことがないので、今回は皆さんと一緒に父の生の講演を聴くことになります。
 この講演の頃、父は“火の鳥-太陽編”描いていました」

 手塚治虫「私は子供の頃、いわゆるいじめられっ子でした。私は生まれつき目が悪くて、小さい頃から眼鏡をかけていました。さらに天然パーマの髪の毛で、もじゃもじゃ頭でしたので、“ガジャボイ”と呼ばれていました。私が学校に参りますとガキ大将が♪ガジャボイ頭を振り立てて、今日も眼鏡がやってきた。見えました、見えました、60mの眼鏡♪という歌を歌いました。あまりにも悔しいので、未だに覚えています(笑)またエリートにもいじめられました。小学3〜4年の頃に“風と共に去りぬ-Gone with the Wind”を読んでいて、私にそれを言ってみろと言うんです。で私が言うと、それでは“窓と共に去りぬ-Gone with the Window”だと言っていじめるわけです。でその人はエリートコースを通って、官庁のお偉方になっていますが...(笑)

 それで家に帰りますと、“ただいま”という代わりにべそかいておりまして、母親が、“今日は何回泣かされたの?”と聞きますからこっちは指折り数えて、8回などと応えるのが日常だったわけです。そういう時に母親に甘えてしまったり、母親側も過保護であれば子供も負け犬になってしまうのですが、私の母は“我慢なさい、堪忍なさい”と毎日のように言いました。
 そういう母親でありましたが私にとって幸いだったのが、マンガを好きなだけ読ませてくれたと言うことです。親父は給料日になると、自分も読みたかったのでしょう、私にマンガを買ってきてくれました。また母親も親父から小遣いを貰いますと私のためにマンガの本を買ってきてくれました。そのようにして200冊ぐらいマンガの本がたまり、友達を呼んできて読ませるぐらいになりました。
 もう一つ私がありがたいなぁ〜と思っているのが、母親が声を出して私達に読んでくれたことです。絵本を母親が読んでくれると言うことは現在でも多々ありますが、マンガの本を親が子供に読んで聞かせる、声を出して読んでくれるというのは無いのではないでしょうか。私にとっては現在を作ってくれるルーツとも言うべき存在でございました。

 もう一人ありがたい存在がございました。それは小学校の時の担任の乾先生です。その当時珍しかった、作文教育という物に熱を込めてやっておられた先生でした。作文の時間になると“とにかく書け”と。内容はどうでも自分の思ったことをなるべく枚数を沢山書けというふうに指導なさいました。授業時間で終わらなければ家に持ってかえって書いても良いといわれ、一番多い時で、50枚書いたことがあります。また議論文という物も書かせました。いわば評論みたいなもので、子供がこれは間違っているのではないかといったことを、自分一人の意見として書けと、厳しい意見を書けと、そういう時間を一月に一回ぐらいやりました、この議論文で世間のいろんな出来事ですとか、社会に対する批判精神を養おうと先生は思われたのだと思います。

 石原君というクラスメイトがおりました。時計屋の息子でエンジニアで、私の親友の一人です。彼はエンジニアであると同時に、科学にも強く自然科学のオーソリティでもありました。その彼が初めて私を昆虫採集に連れて行ってくれました。またその当時非常にモダンな設備といわれておりました、プラネタリュウムに連れて行ってくれました。
 私は良い友達と良い先生と、私の面倒をみてくれた母親とに囲まれて、恵まれた環境に育ちました

 ただそれだけではおそらくいじめられっ子で終わってしまったと思います。そこで私はマンガを見て、マンガを読むことと同時に、マンガを描くことに気がつきました。まず模写から始めました、なぜ始めたかというと、いじめっ子にいじめられないためには、自分でないと出来ない特技のような物を一つ持つことだという結論に達したからです。従ってそれからマンガの勉強をいたしました。これが私が漫画家になるきっかけを作った理由でございます。小学校5年生ぐらいの時に、ノートに一冊の続き物のマンガを描き友達に見せるまでになりました。先生もそれを取り上げて職員室に持っていきました。けれどありがたいことに他の先生方にそれを見せて、返してくれ“ドンドン描けよ”と言ってくださいました。この小学生時代に、漫画家になる基礎を培われたと言っていいと思います。それと周りの環境が培ってくれたんだと思います。

 子供をめぐる状況というのはすべて、学校、家庭、友人、この3つに平等に培われると思います。子供をめぐる状況で、学校の責任だとか、あるいは家庭の責任だとか、あるいは友達が悪いとか、それぞれ言い分をいっておりますがこれは平等に責任があると思います。私は学校制度とか、先生の資質とかそういったこと云々する前に、なぜ校内暴力とか、子供の自殺、親子の断絶が起こるのか、僕なりの考えを申し上げます。40年間、見かけは天下太平な時代が続きましたけど、人々の心の中は戦争の時代よりも、もっとすさんでいるように思えます。最近は体制の中で生き延びるという処世術だけで、命という無限の価値、自然界の中の人間の位置の重大さを教えられるということがほとんど無くなりました。ことに幼児期のもっとも鋭敏に情報を吸収して人格が作られるという時期にそれらはほとんど無視されてしまっている。人の命というのはかけがえのない物、人生はたった一度しかない、そして死によってすべて失われるのだと。それと自然界のあらゆる生き物、ひいては地球もそうですね。同じ生命力に溢れているものだと積極的に教える教育という物が、今こそ必要なのではないかと思います。それは小さい頃から命を大事にするとか、生き物をいたわろうという教育が積極的に続けられていれば、現在の子供をめぐる悲惨な状況は無くなる。これは今からでも始めて遅くはないし、すぐに生かされる物ではないかと思います。

 このような時代に子供の夢を聞くとあまりに現実出来でがっかりいたします。お金儲けですとか、出世して地位を確保するとか、そういった物が子供の希望の中に含まれているのは真に情けない。これは大人の皆さんにも責任があると思います。それは子供達の野放図な夢やロマンが大人によって刈り取られているという嫌いがあるからです。一例を挙げますと、鉄腕アトムがやり玉に挙がりまして、追放されたことがあります。“こんな鉄腕アトムのようなロボットが出来もしないのに、何を書いているか”と、また“月に人間が行けるはずもないのに、荒唐無稽な冒険を描く、手塚というのはどういう人間だ”と痛めつけられました。私は長い間荒唐無稽と言われる夢を描いてきました。そして子供達も同じように荒唐無稽な夢を持っているかもしれません。しかし親たちが“こんな馬鹿馬鹿しいもの”とか“出来もしない事を”と無碍に批判して追放するということはファシズムだと思うんです。子供達は子供達なりに未来に希望を持ちたい、それなりに夢を持っております。ただ我々の持っていた時代の夢とは違うと思います。子供は現代人であり、また未来人なんです。我々よりも少し進歩した時点で未来という物を把握し、認識していると思います。
 アップリカの社長と私は同年輩で友達です。その社長(現会長)のモットーが“赤ん坊を見たら、大人は拝みなさい”彼は“子供は未来人、我々よりも神に近い”と言うんです。つまり我々よりも後に残って、少なくとも地球の未来を支えてくれる子孫。これを大事にしなくてはならない。すくなくても一日一回は子供を拝むという習慣を付ければ、子供に対する理解も生まれ、そして尊敬も生まれて、家庭的にも、社会的にも平和が生まれるんだ。と言っておりました。
 確かに子供は未来人です。その子供達のためにも、何が本当の教育か、何が本当の文化かと言うことを子供達に私達が見極めて与えなければならない。しかしそれは少なくても大人のための文化であってはならない、あくまでも子供のための文化でなくてはならないのです。

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6月22日 故・手塚治虫氏講演より

手塚治虫-未来への遺言2 手塚「手塚治虫の生前最後の講演となった、1988年10月31日に行われた大阪府豊中市立第三中学校での模様をお聞き頂きます。この頃の父・手塚治虫は胃ガンの手術を受けており、まともに食事が出来ないぐらいひどく体をこわしていました。しかし仕事に対しては相変わらず意欲的で、ネオファウストの新連載が始めました。この講演の翌月には中国で開催された、第1回上海国際アニメフェスティヴァルに審査員として参加しています。中国で初めて開かれる国際アニメフェスティヴァルと言うこともあって体調の悪さを押してまで出かけていきました。その帰国と同時に再入院したのですが、回復することなく、1989年2月9日に他界しました。
 この講演はガンに冒されながらも最後まで子供達に生きることの意味を伝えようとした、父・手塚治虫の最後のメッセージです」

 手塚治虫「皆さんこんにちは、手塚治虫です。中間テストが終わったばかりで眠いでしょう。だから今日は難しい話はしません。マンガでも描きながら雑談します。雑談っておもしろいよね。でも時々雑談の中に君たちの参考になる事があるかもしれない、これは君たち次第ですから...。
 僕のマンガにはたいてい命のことがでてきます。例えばお医者さんが主人公のマンガあります。でもこのお医者さんがすごく天才で、手術をして直すことが話の節ではないんです。彼はいつも悩んでいるんです。命がお金で買えるものか...お金持ちはお金を積んで“手術を成功させてくれ”という。しかし貧しい人はそれが出来ない。しかし本当に自分の命が大事だと、これから生きたいという真剣な気持ちを誰が持っているだろう。そういう悩みを持ってこの人は貧しい人でも、お金を持っていない人でも手術をしてくれるんです...。僕はこの中で命を大切さを言ってるつもりなんです。
 僕のマンガというのは他にも沢山ありますけれど、大体に命と言うことが関係しています。それが一生のテーマなんです。なぜかというと、僕は人生の中で本当に、最高のショックを受けた事件、戦争が頭から離れないからです。君たちの一番大きな事件はなんだろう?ものすごく大きな、ショックを受けるような、自分の人生を変えるような事件がもしあれば、それは一生あなた達の宝物になります。

 大学に入って医者の勉強をしました。その時、僕の担当の患者さんが死ぬことになってしまった。その患者さんはガンで、苦しんで眉間にしわを寄せて亡くなりました。で医者が“臨終です”と家族に知らせた時に、それまでの苦しんでいた顔が、すっといい顔になったんです。今までの苦しみを全部忘れ去ったような顔になりました。僕はそれを見ていて、もしかしたら僕たちが死んだ後、別の世界があるんじゃないかと...人間というのは長ーい生命の繋がりの中でほんのちょっとの間が人間で、その前と後にもっと長い命の固まりみたいなものがあるんじゃないかな〜と感じました。人間というのは悩みや欲を持っています。そういう物を全部捨てて、人間でなくなった時に、その患者さんのように穏やかな顔になるんじゃないかなぁ〜という気がしました。そういうことから僕は命という物がほんの僅かな、50年とか70年とか100年のものではなくて、もっとスケールの大きな宇宙的なものだと感じたので、このマンガ火の鳥を描きました。
 この火の鳥は言うんです“カゲロウのように、たった一週間や2〜3日しか生きていないような虫でも、その間に大人になって卵を産む。そして子孫を増やして一生を終える”と。人間はたった50年とか100年とか言っているけれど、その間にはいろんな事があるんです。だからちっとも短くないわけです。カゲロウでもそれだから、人間の命、人生はもっと大きいものでなければならい」


 手塚「私は命の大切さという、壮大でドラマティックなテーマを日常的に父と話したことはありませんでした。でも父作品を通して人生の中で関わってきた生と死の体験を感じます。私は父の死を持って命の尊さというテーマを考えさせられました。それは会話以上に深く記憶に刻まれました。それこそが私にとっての一生忘れられない宝物です」

 手塚治虫「リチャード・アレンさんという宇宙飛行士に会ったことがあります。この人は11番目に宇宙にでて、月に行った8番目の人です。その彼が一番最初に地球を見て思ったことは“脆そうだなぁー。壊れやすそうだなぁー”なんだそうです。それと“綺麗だけれども、あんな小さな天体が今まで持ったことが不思議で、ちょっと殴ってやればガラスみたいに割れてしまう。そんな心配をした”と言っていました。この発想は他の宇宙飛行士は知りませんが、ユニークだと思います。美しいと思うのは当たり前、しかし壊れそうだと言うことに私はショックを受けました。
 そのアレンさんが月を見た時に、月は真っ暗だったそうです。どんなに近づいても暗いんだそうです。で近づけば近づくほど暗いんだそうです。“これはどう見たって死の世界だ。それに比べて地球は脆そうだけど、あれは生きてるなぁー”と思ったそうです。
 そしてアレンさんが地球に戻り家に帰ると、奥さんが彼の顔見て“あなた変わったわねー”と言ったそうです。彼本人は変わったとは思っていなくて、鏡を見ても変わっていな買った...。これを聞いて私は“彼らは人間が変わったと言ってるけれど、宇宙人になったんだ。神になったんだ”と思いました。
 神様というのはいつでも天国にいて、地上を見てるんですよ。人間は今まで地上から天を見てきました。上から地球を見られる、ましてや丸い地球を見られるのは神様だけでした。ところが今、宇宙ステーションやスペースシャトルなどに乗った人とか、大きな所から小さな地球を見る立場の人がドンドン増えてきた。そうするとどうしても地球全体を見るわけです。細かい国のことは分からないけれど、しかし大きな世界の中で人間がこれだけ住んでる、生物がこれだけいるということは全部見通せるわけです。つまり“神様”になるわけです。つまり人間はそこで神様の目から地球を見るようになるんです。それで初めて地球に対する愛情というのが生まれると思います。君たちが何らかの形で地球を外から見る時代がもうすぐ来ます。こういう時にその人は生まれながらに宇宙人になるわけです。“これは今まで本で読んだ地球じゃないな。宇宙から見た地球なんだ、こんなに本と違うんだ。新しい発見だ。美しい地球これを大事にしなきゃならん”ということを心底思うと思う。そういう時代が後10年か20年経つとやってる来る。君たちの時代にはきっと世界中の人間が変わると思うんだ。とにかく地球を大事にしよう、生きてるものを大事にしようと言う時代が来ると思う。君たちはその先鋒者になるかも知らん。

 今(1988年)石垣島に空港を作ろうと沖縄県が準備しています。それは石垣島に観光事業を栄えさせようということです。そうするとあの海の中にいるたくさんの珊瑚とかいろんな自然に生きている動物たちが生きていけない。これは日本に限らない、ヨーロッパやアメリカなどもそう。それを地球という視野で見ればあそこもここもダメになったと思うでしょう。そういうことを目の当たりにして、そして皆さんに直接訴えて皆さんもそれを信じて、全部の人たちが21世紀に、皆さんが社会人になった時に、それを真剣に考えて“回復しよう”という人に是非なって欲しい。
 僕は今まで長い間マンガを描いてきたけれど、生きるということを続けて描いたという本音はそういうことなんです。もう少し命とか地球というものを大事にして欲しいなぁ〜と思います。

 最後に皆さんに言いたい。1つ目は、何でもかんでも好きなことをかじって欲しい。たった一つのことを突き詰めてやっていって、それがダメだった時の衝撃は大きいでしょ。沢山自分で抱えて何でもかんでもやってやろうという気持ちがあると、その時の衝撃が少なくて、これダメだったらこれやろうという気になるわけ。そういう欲張りな気持ちになって欲しい。
 2つ目は、皆さんが今までに受けた、あるいはこれから受けるであろう一番大きなショックな出来事を一生大事に持っていて欲しい。忘れないで持っていて欲しい。
 3つ目に、命を大事しましょう。ということです。この3つが僕から皆さんへのささやかな贈り物であります」


羽仁カンタさん 上田壮一さん

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