スタッフブログ

『黒部の太陽』について考えて...

■先日もご紹介した10月の舞台「黒部の太陽」を紹介するテレビ番組の企画について考えているうち、なんだかいろいろ感慨にふけってしまいました。今夜の湿気のせいかしら?

■...映画「黒部の太陽」が公開されたのが今から40年前の1968年。その題材となった黒部ダム・関電トンネルの開通は更にその10年前、1958年の出来事です■この年、日本映画界はまさにピークを迎えていました。年間の動員数が延べ11億人超。日本人が平均して月に1回は映画館に足を運ぶという、まさに「映画が娯楽の王様」の時代でした■1958年...僕の家にも、多くの日本の庶民の家庭にもまだテレビはありませんでした。しかしこの年、あの男が登場します!■立教大学のスター・長嶋茂雄が巨人軍に入団、開幕戦で金田正一に4打席連続スウィングアウト!ホームランを打ったのにベースを踏み忘れて1本損をし、結果29本塁打となって「新人による3割30本塁打30盗塁」という大記録を逃す!...というあまりに派手なデビューを飾ったのです■翌1959年、長嶋は天覧試合でルーキー・王貞治と初のアベックホームランを放ち、そして更にもう1本、ザトペック村山からサヨナラの一発!ON時代、日本プロ野球の黄金時代がここに到来したのです■もうひとつ、この59年を象徴する出来事が、もちろん「皇太子ご成婚」■...この2つの国民的関心事によりテレビジョン受像機が飛躍的に普及した、とはよく語られる話です■そしてこの59年は同時に、映画の動員数が下り坂に入った年なのです。「王様」の座を、映画は少しずつテレビに奪われ始めました■まもなく、黒部ダムなどがもたらした電力と経済成長のおかげでしょう、わが家の氷で冷やす冷蔵庫は電気冷蔵庫に代わり、同じ頃、テレビがやってきて、僕は「七色仮面」(なぜか月光じゃなく)や「ローハイド」や「番頭はんと丁稚どん」に夢中になりました■そんな1960年代、映画界は次第に閉塞期を迎え、石原裕次郎さんたちがその状況を打破するために作ったのが超大作「黒部の太陽」だったのです■「黒部の太陽」は興行的にも空前の大成功を収めますが、この作品が、テレビなど電化製品の普及を支えるダム作りの物語だったのは、時代の皮肉な必然でしょうか...■やがて裕次郎さんも不本意ながらテレビドラマに出演、そして自らドラマシリーズ制作へと進出していくのです。そのおかげで僕たちは「太陽にほえろ!」や「西部警察」などの傑作に今でも触れることが出来るわけですが...■つまり、すごい人は何をやってもすごいって、そういうわけです■

■「黒部の太陽」にまつわる人々の苦しみや悩みや栄光について考えつつ、知らない間に映画とテレビという娯楽メディアの交錯の歴史にまで想いを馳せてしまいました■間違いなく今、テレビも大きな時代の転換期を迎えています。僕もいまテレビを点けっぱなしにしながら音声だけ聞いて、パソコンのキーボードをオタオタと叩いているわけですが、このパソコンや携帯電話や携帯ゲーム機の普及によって、若い人のテレビ離れが徐々に始まっているのは残念ながら事実でしょう■でもそれはまだほんの少し。映画界は一度どん底を経験し、そして昔とは大きく仕組みを変えながらも再び活況を呈しています。しかしそれには長い時間がかかりました。さて、ここでテレビは踏ん張れるのでしょうか!?それとも...■僕も微力ながら頑張ります!(艦長)

■10月5日初日、「黒部の太陽」は舞台の常識を超える大迫力の娯楽作品です。お見逃しなく!■

 

前の記事

うふ

2008年08月27日水曜日
前の記事 前の記事
次の記事

日曜の朝に

2008年08月31日日曜日
各ページに記載している内容は、掲載時点のものです。消費税率移行に伴う価格変更等についてご留意下さい。
バックナンバー
前の月 2008年08月 次の月
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31